「言語教育研究会」 第12回研究会

投稿者: | 2017年1月28日

1月21日は、「言語教育研究会(ケネス・グッドマン原書講読会)」の第12回研究会がありました。千葉大学名誉教授の首藤久義先生を囲んで、Kenneth Goodman の『What’s Whole in Whole Language?』を読んでいく研究会です。参加者は9人。

はじめて参加された方が、1人。千葉大学教育学部を卒業されて、四街道の小学校で教えている方でした。

研究会は、第2回プラチナエイジ夢フェスティバルの川柳コンテストに応募された、5つの作品を読んでの感想の共有からはじまりました。首藤先生が、選者を務めているそうです。参加者の好みは、いろいろでした。(ちなみに、プラチナエイジとは、「満60歳以上」を指すそうです)。

研究会の前半は、首藤先生が、第30回徳島県小学校国語教壇研修大会の講演の資料として配布した、『師弟共育の国語教育論-芦田惠之助の根本に学ぶ-』について、前回に引き続き、説明してくれました。

「発動的学習(いまでいう、アクティブ・ラーニング)をすすめるためには、教授材料よりも、教授方法よりも、教師の態度が大事だろう」ということでした。

個人的には、芦田と古田拡のあいだで交わされたという、次のような内容の対話が、印象的でした。「1合の升には、1合しかはいらないよ」(芦田)、「1合の升を2合にするのが、教師の役割では」(古田)、「そうかなあ。でも、いつまでも1合とは、わからないよ」(芦田)。

また、「自己の満足を標準となす」という芦田の言葉にも、「具体的に、教師はどのように評価すればいいのか」といった、質問が寄せられました。

研究会の後半は、テキストの18ページを読みました。「子どもたちが、単語からはじまり、それから文をつくるために、それらをつなげていくという考えは、幻想でしかない」という文章からはじまりました。

そうかなあと思って読み進めていくと、「『ダダ』も『ママ』も、『ねえ、こっちに来て、構ってよ』といったことを意味する、本当に全体的な発話なのである」とありました。なるほど、そういう考えもあるかと、思いました。「言語は実際、全体から部分へと、学習される」ということです。

このほか、「ひとつの単語が、さまざま文脈で、いろいろな意味で使われる例」、「中国で、『福』という漢字が、逆さまに飾られているのはなぜか」といった話(縁起かつぎに、発音の同じもの、「倒福」と「到福」を掛けているそうです)も、共有されました。

楽しい学びの時間でした。