1か月前ですが、2月11日は、「言語教育研究会(ケネス・グッドマン原書講読会)」の第24回研究会がありました。千葉大学名誉教授の首藤久義先生を囲んで、Kenneth Goodman の『What’s Whole in Whole Language?』を読んでいく研究会です。
参加者は6人。新しい参加者は、なし。
かなり記憶が曖昧なのですが、前半は、テキストを読みました。社会言語学者のハリディの説を用いて、「言語純粋主義者は、言語使用において、完全な適切さをもとめる。裁判官のようだ。これは、人間の言語に対する尊敬の欠如を覆い隠す」
「また、パワーと社会的ステイタスのある人々の言語は、それらがない人々の言語よりも、よいものととられる。言語への社会的な姿勢は、人々への社会的姿勢を反映する」ということでした。
そこから、「美しい日本語とは。それを教えるべきか」という話しあいに発展しました。首藤先生いはく、「まず通じるかが、大事。共通語でないといけない。言語は、社会的なもの。家庭や職場など、環境によって異なるし、年代やグループによっても変わる」
「美しいとか正しいというのは、必要ないが、目的と相手に応じて、適当な言語というのは、必要だろう。大和ことばだけを使っていたら、現代では、コミュニケートできないでしょう」ということでした。
「各地の方言には、わりと古語が残っている」という指摘もありました。
それから、「幼稚園と小学校の接続を、どう考えるべきか」という質問もでました。首藤先生いはく、「滑らかな接続と適度な段差でいいのでは。段差は、もともとある。新たにつくる必要はない」ということでした。
後半は、2人が早退され、参加者の3人が、働きながら、学位論文を書こうとしていることから、そのための情報交換やアドバイスをしあう、インフォーマルな話しあいとなりました。首藤先生の大学院のゼミ授業にいるようなかんじでした。
楽しい学びの時間でした。