7月2日(日)は、「言語教育研究会(ケネス・グッドマン原書講読会)」の第15回研究会がありました。千葉大学名誉教授の首藤久義先生を囲んで、Kenneth Goodman の『What’s Whole in Whole Language?』を読んでいく研究会です。参加者は8人。
はじめて参加された方が、1人。千葉市の小学校の先生でした。2-3年ぶりの参加という方もいました。
研究会では、南アフリカのアマルーラ・チョコやルイボス茶をとりながら、テキストの19-20ページを読みました。
「話し・聞く場では、言語以外の要素、『場面の文脈』なども、関係してくる」、「読み・書く場でも同じだが、話し・聞く場と、ひとつちがいがある。目の前に、相手がいない。そのため、読みの場では、書き手の『Senses(イメージ)』、書く場では読み手の『イメージ』を抱く必要がある」ということでした。
そういえば、英語学の授業で、「コミュニケーションで、言語が占める割合は、10-30%」と聞いたなあと思いました。
また、教育心理劇の授業で、「学校の授業がつまらないのは、話したり聞いたりする相手が、自分より上の立場にいる、教師ひとりだからです。作文も、教師以外の読者を想定すると、生き生きしてくるでしょう」と聞いたことも、思い出しました。
話しあいでは、「Register(特定集団登録言語)」という言葉から、「学校で、教員が、児童や生徒や学生を、『ちゃん』とか『君』で呼ぶのは、どうだろう」というテーマで盛りあがりました。
「『ちゃん』とか『君』で呼ぶと、心理的な距離が縮まることがある」、「中学では、名字を呼び捨てにする先生が多い」、「短期大学では、『さん』で呼ぶように、指導があった」など。首藤先生いはく、「場面に応じた使い分けでいいのでは」ということでした。
次に、公開研究会の話から、「読みや作文の授業で、途中指導をするべきか」というテーマでも、いろいろな意見がでました。
首藤先生いはく、「まずは、自分のペースで、読ませて、書きあげさせてはどうか。個別指導も、有害なときもある。話しあいも、時間の無駄であることが多い」ということでした。
それから、「授業の目標や評価基準を、設定しなくていいのか」という質問もでました。首藤先生いはく、「活動目的はつくる。評価基準は、ひとりひとりちがう。車の無段変速のような評価基準でいいのでは」ということでした。
楽しい学びの時間でした。