昨日は、「言語教育研究会(ケネス・グッドマン原書講読会)」の第10回研究会がありました。千葉大学名誉教授の首藤久義先生を囲んで、Kenneth Goodman の『What’s Whole in Whole Language?』を読んでいく研究会です。参加者は10人。
はじめて参加された方が、1人。有名な教科書会社に勤めている方でした。また、参加者のなかで、千葉大学附属小学校の教育実習で、指導教員だった人と実習生だった人との再会などもあり、せまい世界だなあと思いました。
テキストは、16-17ページを読みました。「すべての学習は、危険をともなう。家族は、子どもたちの最初の言語使用を、やさしく包みこむ(cherish)ことで、学習者の危険を減らす。彼らは失敗して、また挑戦することができる。学校も、同じように、言語発達の危険をとることを、勧める必要がある」という、文章からはじまりました。
なるほどと思いました。「やさしく包みこむ(cherish)」とは、どういう指導だろうと、話は広がりました。「授業で、子どもたちのまちがいを、どこまで直すべきか。まちがいを指摘するよりも、より多くの言語活動をさせるほうが大事なのではないか」という議論にもなりました。
そして、「社会言語学者のハリディは、『子どもたちはしばしば言語を率先して使い、保護者はその後ろから付き添い、観察して、反応する。しかし子どもたちに、自分のペースで、自分の発達に責任をもたせるようにする』と述べている」と、続きます。
ここから、教員のモデルの話になりました。「伴走的コーチ」、「ダンスのパートナー」、「先導役」、「仏様の指(困っているときに、気づかれないように、後ろからそっと押してあげる)」など。ひとりひとりの子どもに寄り添って、役割を変えるのが理想だろうなあと思いました。
このほか、「国語の読解力がつけば、算数や理科の理解力もつくというのは、まちがっている」といった議論も、興味深かったです。
あと、「10人も集まって、ひとりひとりが自由に、いいたいことを発言できるだろうか」と、ちょっと心配していたのですが、私の見るかぎり、大丈夫だったようです。